◆つたの細道
奈良・平安時代から1000年余りの間は、宇津ノ谷峠には『つたの細道』という細くけわしい山道しかありませんでした。ここには、昔、山賊のような人たちがいたと言われ、旅人たちは大変暗く細い道に心細い思いをしたようです。峠には、伊勢物語に出てくる在原業平(ありわらのなりひら)の歌碑があります。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも
    
   夢にも人に 逢わぬなりけり
◆人食い鬼と十団子『民話』(要約してあります)
宇津ノ谷峠の谷に梅林寺というお寺があった。住職は難病にかかり、若造に血膿を吸い出してもらった。ところが、人の血の味を覚えた若造は、ついに人々を襲う鬼となった。

ある日のこと、在原業平(ありわらのなりひら)がこの地を通った折、村人を救うため地蔵菩薩に祈願した。すると菩薩は旅の僧となり、この地に現れた。その目の前に子供が出てきて、『わたしは祥白童子(しょうはくどうじ)というものです。あなたは、この夕方どこへお出かけですか。』と言った。僧は、『お前は、この村人や旅人を食い殺す鬼だろう。早く正体をあらわせ。』と大声で叫んだ。
この一声に子供の姿は消えて、見るも恐ろしい6メートルあまりの大鬼が目を光らせ、今にも飛びかかろうとした。そうは少しもあわてずに言った。『なるほど、お前の力はすごい。わしは、お前に食べられても仕方がない。死ぬ前にお前のその力をもっとみせてくれないか。』

鬼は、とくいになって、いろいろなかたちになってみせた。僧は言った。『思い切り小さくなって、わしの手のひらの上に乗ることが出来るか。』

鬼は、一つぶの小さな玉となって、僧の手のひらの上に乗った。この時、僧は持っていたつえで手のひらの玉を打った。すると不思議なことに空が急に曇り、かみなりの落ちる音がしたかと思うと、玉はくだけて10個のつぶとなった。僧は『お前が村人たちを困らせることがないように迷いから救ってやろう。』と、そのつぶを一口に飲み込んだ。

その後、峠に鬼は現れなくなった。

10の団子にわれた鬼のたたりを心配した村人は、玉をかたどった10個の小さい団子を作って供養した。お地蔵様が、夢のお告げの中で『十団子を作ってわしに供え、かたく信心してこれを食べれば旅も安全、願い事もかなう。』と言ったからだそうだ。

十団子も 小粒になりぬ 秋の風
                      許六
◆御羽織屋(おはおりや)
宇津ノ谷の古い町並みの中に『御羽織屋』と呼ばれている家があります。この家は、豊臣秀吉の陣羽織で有名です。

1590年、秀吉が小田原の北条氏征伐(せいばつ)のため、東海道を下り、宇津ノ谷を通りかかりました。石川家の軒下にあった沓(わらじ)に目をとめて、使い古した自分の馬の沓と取り替えようとしました。ところが、石川忠左衛門は、3脚分しか差し出しません。なぜかと、秀吉が問いただすと、『差し出した3脚は道中の安全を願うもの、残り1脚はここに置き、戦いの勝利を願うものです。』と答えました。

秀吉が出かけた後の半年間、忠左衛門はお地蔵様に毎日1脚ずつの馬の沓をささげて秀吉の勝利を願っていたそうです。

北条市を破り、帰りにまた石川家に立ち寄った秀吉は、その話を聞き、ほうびとして自分の陣羽織をさずけたそうです。

◆誓願寺(せいがんじ)
1192年、源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、鎌倉幕府を開いたのを記念して、両親の供養のために建てられたお寺だと伝えられています。境内に、片桐且元(かたぎりかつもと)夫妻のお墓があることで有名です。

本堂の横の小さな池では、モリアオガエルが梅雨時に産卵します。モリアオガエルの繁殖地として静岡市の天延記念物の指定を受けています。

誓願寺からあるいて15〜20分ぐらいの所に大鈩不動(おおだたらふどう)の滝があり、不動尊が安置されています。毎月28日が縁日で朝市が開かれ、とてもにぎわっています。不動の滝の水はとてもきれいです。

◆丸子城址(まりこじょうし)
丸子城は、室町時代の初めから、戦国時代の終わりまでの約150年間いくさに使われた山城(やましろ)です。今川氏が北城をつくり、後に武田氏が南城の本丸をつくりました。丸子城を支配した人を歴史的に見ると、次のようになります。

  • 今川氏 (1418-1568)
  • 武田氏 (1566-1582)
  • 徳川家康(1582-1590)
家康は、小田原征伐後は秀吉に関東をまとめるように言われ、江戸を本拠地にしました。そのため、秀吉が天下を統一してからは、丸子城は使われなくなり、廃城となってしまいました。

◆吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)
1504年、室町時代に連歌師の柴屋軒宗長が今川氏に建ててもらったのが、吐月峰柴屋寺です。

宗長は、京都の銀閣寺に庭をまねて造りました。南に丸子富士、西北には天注山が見られるすばらしい庭園です。この庭の月見石に座っていると、竹林が名月を吐き出すように見えることから『吐月峰』と名づけられたと言われています。昭和11年には『国の史跡・名勝』に指定されました。京都嵯峨から移された竹で作られた竹細工も有名です。

今川文化、室町時代の遺産を今に伝える重要な史跡です。宝物として、足利義政が贈った文福茶釜(ぶんぶくちゃがま)や一休和尚(いっきゅうおしょう)からの鉄鉢(てっぱつ)があります。

◆宿場町 丸子
江戸時代に発達した交通路で重要なものは五街道と呼ばれてました。東海道、中山道(なかせんどう)、甲州街道(こうしゅうかいどう)、日光街道、奥州街道(おうしゅうかいどう)がそれです。

江戸から京都までの東海道には、五十三次とよばれる宿場町(しゅくばまち)がありました。丸子は、江戸から数えて二十番目の宿場町です。

江戸(日本橋) 〜 品川 〜 川崎 〜 神奈川 〜 程ヶ谷 〜 戸塚 〜 藤沢 〜 平塚 〜 大磯 〜 小田原 〜 箱根 〜 三島 〜 沼津 〜 原 〜 吉原 〜 蒲原 〜 由比 〜 興津 〜 江尻 〜 府中 〜 丸子 〜 岡部 〜 藤枝 〜 島田 〜 金谷 〜 日坂 〜 掛川 〜 袋井 〜 見付 〜 浜松 〜 舞阪 〜 新居 〜 白須賀 〜 ニ川 〜 吉田 〜 御油 〜 赤坂 〜 藤川 〜 岡崎 〜 池鯉鮒(ちりゅう) 〜 鳴海 〜 宮 〜 桑名 〜 四日市 〜 石薬師 〜 庄野 〜 亀山 〜 関 〜 坂ノ下 〜 土山 〜 水口 〜 石部 〜 草津 〜 大津 〜 京都(三條大橋)
丸子宿は、旧東海道沿いの長田西小あたりから丁子屋(ちょうじや)あたりまでの約800メートルの間にあったそうです。今でも一里塚や本陣(大名が泊まる宿)跡が残っています。

丸子は、何と言っても『とろろ汁』で有名です。丸子橋のところにある丁子屋には、十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)や松尾芭蕉(まつおばしょう)の、とろろにちなんだ碑があります。



これは芭蕉が旅立つ弟子の乙州に贈った送別の句です。

  梅わかな 丸子の宿の とろろ汁

『あなたはこれから旅に出るが、ちょうどそのころ丸子の里ではあちこちで花が咲き、若菜(若い緑の葉)も青々としていることでしょう。丸子の宿では、名物のとろろ汁が一番美味しい季節です。あなたもその風味を味わってみたらどうですか。』といった意味だそうです。(長田村誌によると若菜は若菜庵という俳句の団体を示すとなっています)

  けんかする 夫婦は口を とがらせて 鳶とろろに すべりこそすれ

これは、弥次さん喜多さんで有名な『東海道中ひざくり毛』の作者、十返舎一九の碑の中で書いてある言葉です。『鳶(とび)のくちばしのようにするどく口をとがらせて、夫婦げんかをした挙句、とろろ汁につまづいてころんでしまった。』という意味です。

十返舎一九ってどんな人?
静岡に生まれた、江戸時代後期最高の劇作家。享和2年(1801年)『東海道中膝栗毛』を刊行して一躍名声を博しました。

◆いざり地蔵と東海道昔の旅
文政2年(今から180年ほど前)1人の旅人が宇津ノ谷峠を越え、丸子橋のほとりまでやって来たのですが、力尽きて道に倒れてしまいました。足を痛めた旅人は故郷へ帰りたい一心で道を這ってここまで来たのです。しかし、この世を去りました。村人は『次の世は足も丈夫に生まれ変わりなさい』と、ここにお地蔵様を建てて供養しました。

昔は、ほとんどの旅人は歩いたのですから足が丈夫でなければ旅はできません。往来の旅人はお地蔵様の由来を聞いて道中の無事をお祈りしました。丸子の『おいざりさん』と呼ばれ、今でも参拝の人が絶えません。(お地蔵さんのうらに文政2年4月27日と刻まれています)

<昔の旅一口メモ>
  • 江戸から丸子まで46里8町(約184km)、丸子から京都まで79里12町(約316km)ありました。
  • 歩くと13日から15日かかったそうです。
  • 脚が疲れたときには足の裏に塩をぬって火であぶったり、ごま油やしょう油をぬったりしたようです。

INDEX
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